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所謂「石油ピーク」に関しては、20世紀のオイル・ショック時代にも何回か語られてきました。 私も小学校・中学校時代には、「石油は後30年でなくなり、21世紀は原子力の時代になる、」と盛んに先生から言われたものです。 あの当時から30年後というのは2010年代頃を指すのですが、現時点で得られる統計データで見る限り、世界の石油の生産量は2005年にその上限を迎え、2006年、2007年とその上限を超えることが出来ずにほぼ横ばい状態が続いています。 石油を一番多く産出しているのはサウジアラビア、以下、米国、ロシアと続きますが、いずれの国もここ数十年間、サウジのガワール油田のような大型な油田が発見されたというニュースは聞きません。 一方、冷戦後、新しい油田の探索が進められましたが、超巨大油田と期待されたカスピ海沿岸やアフリカ沿岸はいずれも規模的にはそれほど大きくないことがわかり、結局中東の油田に世界各国の注目が戻りつつあります。 現況下、今後石油の生産量及び供給量は、中東での石油産出量が減少することに伴って減少する可能性が高いと言えましょう。 この情勢下で起こったのが米国によるイラク侵攻であり、中国のイラン接近であり、そして最近では日本とウラン産出国であるカザフスタンとの関係強化やアラブ首長国連邦における仏軍事基地の建設等です。 ただし、石油が仮に無限にあったとしても、人類がこの自然の恵みを無秩序に使い続けて良いのかどうかという別の問題があります。化石燃料の燃焼に伴う地球温暖化や環境破壊、有限である資源の奪い合い等・・・。 本書「石油ピークが来た」の著者の石井吉徳は、「地球は有限であり、人類は成長経済をいつまでも続けていくことができない。」との主張を、石油生産がピークを迎えたとの前提の下、過去の文明の歴史やエントロピーの原則等に触れながら、展開していきます。 さて、この本を読み終わった後の所感です。 ① 石油の生産量に限りがあることは、1970年代以降の米国の生産量の減衰や近年の北海油田の急速な生産量の減少という事実からして、疑いようのない事実。今後、世界最大の油田と言われているサウジアラビアのガワール油田の生産量が大幅に落ち込んでいけば(時期としては2008年後半~2009年前半にかけてから始まると勝手に予想)、サウジアラビアの石油輸出量ガ減るため、世界は更なる石油パニックになるかもしれない。 ② エネルギーの確保は、現人類にとって最重要課題である。当面はウラン(原子力)や天然ガス(但し、天然ガスは燃料以外にも必要なため、エネルギー用には使うべきではないと考える。)で代替可能だろうが、現在のガソリンやジェット燃料依存の陸空路の運輸をやめなければ、石油の減衰は早まる一方。陸路においては鉄道網や路面電車の徹底的な利用、空路においてはそれこそ水素エンジンを使った飛行機を開発するなどの諸策を一刻も早く講じる必要がある。 ③ 石油がなくなった時のキューバと北朝鮮の対応の違い(キューバは自然農業に回帰したのに対して北朝鮮はなんら手を打たなかった)について、著者はキューバを褒めているが、この意見には納得できない。キューバは熱帯地方に属するため、自然農業に回帰しやすかったが、元々気候の厳しい北朝鮮は食糧生産のためには否応なしに化学肥料等に頼らざるを得ない現実がある(もちろん、金王朝の失政も北朝鮮の食糧危機に多分に影響しているだろうが)。日本でも、現代農業以前の北海道や東北では度々冷害に悩まされてきたことを忘れてはならない。 ④ 筆者は、この本のところどころで、「石油危機に対する解決策は見つかっていない。今こそ、日本は欧米追従をやめて、自分自身で、自分達が生きる道を徹底的に考え抜くべきだ。」と述べているが、その一方で本の終わりに著者の考える日本のプランB(プランAが常識的な今までの流れに沿った形でのリスク回避プランであるのに対して、プランBとはより抜本的な変革を実施してリスクを回避しようとするプランのこと。故にBと呼ばれる。)として、より地域社会に密着し、より資源を少なく使い、「もったいない」という言葉をスローガンにつつましく生きるべきだと述べている。 確かに、省資源は間違いなく今後の世界における潮流になるであろうが、現実問題として今の消費文明に慣れきってしまった(特に先進国の)人類が、おいそれと生き方をすぐに変えることは難しいのではないか。 従い、省資源=リサイクル社会への移行に伴い人類社会における混乱は避けられず、これをどう乗り切るかが世界の共通課題となる。 なお、個人的には、エネルギーの確保さえ出来れば、リサイクルによる一定水準の消費社会の維持は可能ではないかとの希望を持っています。(たとえ、そのエネルギー源がウランであれ、太陽エネルギーであれ) もっとも、電気抵抗熱のエネルギーによる資源のリサイクルはでは現在の技術では難しく、結局化石燃料(もしくは水素)を燃やすことによって生じる燃焼熱でしかリサイクル(特に金属)は出来ないので、ここをどうやって乗り越えていくか、ですね。 技術過信は禁物ですが、全く希望がないわけではないので、引き続き人類の英知がこの困難を切り抜けることを期待するしかないのではないか、と思います。 人間誰でもそうですが、希望がなくなってしまえば、その人の人生は終わります。 悲観論も結構ですが、これからの混沌とするであろう社会において、少なくとも前向きな気持ちを持ち続けて生きたいと思っています。 #
by witchmountain
| 2008-02-25 02:17
| 書籍
人生生きてきて35年、これまで数え切れないほど(?)の音楽を聞いてきた私ですが、その中のベスト10を選ぶとなると、これはなかなか難しいものです。
感動したとか、記憶に残っているとかを基準にせざるを得ないわけで、かなり自分自身でも主観的な評価に結局落ち着いてしまうところが悩ましい・・・ まあ、もっとも音楽は娯楽であり、いかに楽しめたか、感動したかを基準にしても問題ないとも思います。 ・・・なにやら映画編の時の文言をパクってきてしまいましたが、何はともあれ、私のベスト10発表!(この順位の付け方は、映画とは違いかなり難しかったです・・・) 1位:Angelia (Richard Marx) 2位:Tomorrow Never Knows (Mr. Children) 3位:微風(岡村孝子) 4位:どんなときも(槇原敬之)&愛は勝つ(KAN) 5位:ラブ・ストーリーは突然に(小田和正) 6位:Sailing (Christopher Cross) 7位:風の旅(松岡直也) 8位Method of Modern Love (Hall & Oates) 9位:Only Time Will Tell (Asia) 10位:Toy Soldiers (Martika) <解説> 1位:Angelia (Richard Marx) 今日現在の気持ちはともあれ、自分の35年間の人生で最も感動した曲と言えば文句なしにこの曲。この曲の入っているアルバム「Repeat Offender」はそれこそ、私の人生の中で唯一と言って良いほどCDが擦り切れる位(実際にCDが擦り切れることはないのですが)聞きまくりました。特に高校、大学時代。 何が良いかと聞かれると、少し困るのですが、ひたすらメロディー、というよりもむしろこの歌の悲しげな、それでいて深みのある単純な曲調に酔いしれていました。 Richard Marxの感情の入った声(この声は天性なのでしょうね・・・)もまた良いというしかありません。 Marxの歌は、この曲に限らず、全般的に好きですね、下手に90年代のラップ、テクノ全盛時代に迎合せずに只管「バラードの王様」として良い曲を作り続けてきた彼の職人魂には敬服するばかりです。 今も元気で活動しているんでしょうか・・・? 2位:Tomorrow Never Knows (Mr. Children) 新入社員の時にMr. Childrenが好きな同僚がいたので、彼に触発されていろいろ聞いているうちにこの歌に巡り合いました。 ちなみに彼は「Cross Road」が好きだったようですが、私はこの「Tomorrow Never Knows」が一番好きになりました。社会人以降で好きになった歌が2位に入るのは、自分でもかなり意外です。 この歌は、現代風な歌詞ですが、それでいて時間的な、そして人間的な深みがあります。 この曲で特に好きなのは前半ですが、この部分で歌詞は人間的な嫌な本質的な部分を鋭くえぐってはいますが、曲調に流れるように唄が進み、完全に曲に唄が溶け込んでいます。 カラオケで歌う度に好き度合いが増すという、素晴らしい曲です。 この歌は、恐らく私が死んだ後も名曲として残るでしょう。 そういう意味では、1位の曲よりもレベルは遥かに上です。 3位:微風(岡村孝子) Tomorrow Never Knowsと同じように(とはいってもこの曲の時は自分は高校生でしたが)、高校時代に岡村孝子が好きなやつがいて、彼に触発されて彼が持っていた岡村孝子のCDを聞かせてもらった時に一番気に入ったのがこの「微風」という歌です。 この歌、岡村孝子の曲では全然人気がないのですが、メロディーが個人的には素晴らしく感じます。 流れるような、それでいて切ないような、雰囲気がとっても良いです。 まあ、岡村孝子に凝ったのは高校時代のみで、大学以降の私の中ではすっかり忘れられた存在になっていますが、聞きやすいのでたまに耳を傾けています。 4位:どんなときも(槇原敬之)&愛は勝つ(KAN) この2曲は何故か自分の中ではセットです。 同じ頃に聞いたからか、それとも、二人ともピアノで生演奏しているのをテレビで見ているからか、はたまた二人とも歌うときの口が大きいせいか・・・。 いずれにせよ、2曲とも曲調が明るくて覚えやすいハーモニーであり、落ち込んだ時に元気が出る歌です。いずれも、後世に残る名曲であると言えるでしょう。 もっとも、槙原はともかく、KANは最近殆ど噂を聞かないですが・・・。 5位:ラブ・ストーリーは突然に(小田和正) この曲も大学時代に良く聞きました。 とにかく、出だしのギターのカット音で引き込まれてしまう曲です。 小田和正の流れるような声が、歌詞のせつなさによく合います。これも、後世に残る名曲でしょう。 ちなみにこの歌が主題歌で使われたドラマ「東京ラブストーリー」もなかなか良かったですね。 6位:Sailing (Christopher Cross) この歌は、日本ではあまり知られていないかもしれませんが、1980年にアメリカでグラミー賞(最優秀シングル)を取った曲です。 後に出てくるAsiaの「Only Time Will Tell」と共に、当時小学校3年生だった私をアメリカン・ポップスの世界へと引きずり込んでしまう名曲です。 歌の内容は、Sailing=航海のことを歌うという極めて単純なものですが、クロスのソフトな歌声とバックで流れているギターの伴奏が本当に良く合います。ピアノのソロも最高です。 本当は2位くらいでも良い位の曲ですが、まあ私の人生におけるインパクト度という意味では少し物足りないので、6位にとどめました。 7位:風の旅(松岡直也) 上位10曲の中で、一番マイナーな曲です。大学時代に所属していたのが音楽系サークル。ここで、先輩に聞かされて一時期はまりました。 この曲は、所謂「フュージョン」の部類に入ります。 フュージョンとはいっても、ドラゴンボールZで孫悟空とベジータが合体した技のことを言うのではなく、歌声が入っていない曲のことを言います。 ピアノのバックグラウンドのベースの伴奏がなかなかリズム良く進んでいきます。 大学時代の良い思い出と共にたまに聞きたくなる曲です。 8位:Method of Modern Love (Hall & Oates) この歌は、私が中学2年の時に聞きまくった曲です。 何が良かったか、と聞かれても返答に窮するのですが、リズム感が良かったのと、HallとOatesの掛け合いが良かったのでしょう。 風呂の中ででかい声を張り上げて歌っていたのを今でも思い出します。(あの頃は元気だったなあ・・・) 9位:Only Time Will Tell (Asia) この歌は、自分にとっては本来1位に来るべき歌です。 何故なら、この歌を聴いたのがきっかけで私はアメリカン・ポップスを良く聴くようになりました。 何が良いかって?出だしのシンセサイザーホーン(?)の音に聞きほれていました。(←変なやつ) 今聞いたら、別にそんなに感動もしないのですが、当時聞いた時は最高でした。 ASIA・・・君たちのことは永遠に忘れやしないさ・・・♪(顔全然覚えてませんが) 10位:Toy Soldiers (Martika) この歌は、高校時代によく聞いた曲です。 麻薬に溺れる若者のことを歌ったシリアスな歌なのですが、このMartikaという人の声にはほどよく感情がこもっていて、結構今でも印象に残っています。 もっとも、この人ってアメリカではこの曲ぐらいしか流行らなかったような気がしますが(英国では何気に他のMartika's Kitchen等の曲も流行っていました。) ちなみに、上記10曲のうち、2位、4位、5位は未だにCDアルバムを持っていません。 有名な曲だからいつでも買えるさ、と呑気に構えていますが、さて・・・。 これから、上記10曲に食い込める素晴らしい曲が現れるのでしょうか? 歳とともに感動が薄れていくので、おそらく出現しないとは思いますが、人生どこで何が起きるかわかりません。 引き続き、次なる名曲に巡り合うことを期待したいと思います。 #
by witchmountain
| 2008-02-22 04:10
パリにはいろいろな博物館がありますが、何も絵画関係だけではありません。
流石はフランス第一の都市ということもあって、いろいろなものが展示されています。 金貨製造、生物、下水道、郵便、お墓、更にはマジック等・・・ 今回、2月17日(日)に嫁さんと二人で出かけたのは、国立自然史博物館の中の進化大陳列館(Grande Galerie de l'évolution)でした。 まずは、下記記事をご覧ください。 ----- Wikipedia Japaneseより引用 ----- 国立自然史博物館 (フランス)(le Muséum national d'histoire naturelle) 国立自然史博物館。国立自然史博物館は、フランスの文部省・研究省・環境省の共同監督下にある。MNHNと略称されることがある。日本語として「国立自然誌博物館」という表記もある。 この博物館が正式に発足したのは、フランス革命中の1793年6月10日、国民公会(la Convention)によってだったが、その起源は、1635年にフランス国王ルイ13世が創設し、王の侍医たちにより監督運営された「王立薬草園」(Jardin royal des plantes médicinales)に溯る。しかし、1718年3月31日に少年王ルイ15世の勅令によって医学的な機能は排除されて、自然史に集中することになったので、単に「王立庭園」(Jardin du Roi)として知られるようになった。 18世紀の大半(1739年 - 1788年)、本庭園は指導的な啓蒙思想の博物学者の一人ビュフォン伯ジョルジュ=ルイ・ルクレル(Georges-Louis Leclerc, comte de Buffon)の監督下にあって国際的な名声と社会に対する信望とを獲得した。1793年に、本庭園は自然史博物館に編入されたが、その後も一世紀にわたり活発な活動を続け、特に化学者ミシェル・ユジェーヌ・シェヴルール(Michel Eugène Chevreul)の監督下にあって、科学的研究においてパリ大学と拮抗するようになった。 こうした状況は、本博物館を自然史に重点を置くよう戻す1891年12月12日の法令により終わりを告げた。1907年に財政的な自立を獲得した後、本博物館は改めて発展しだし、大戦間にあってもフランス全土において施設を開設した。この数十年来、本博物館は、人間による環境開発の影響を研究・教育することに力を注いでいる。 本博物館の使命は、基礎及び応用双方の研究と、知識を一般に広めることとにある。その組織は、7つの研究部門と、3つの教育部門とからなっている。その研究部門は、分類・進化部門、制御・発生・分子多様性部門、水環境・生物集団部門、生態学・生物多様性管理部門、地球史部門、人間・自然・社会部門、先史部門である。また教育部門は、パリ植物園内の陳列館、植物園及び動物園、そして人類博物館(Musée de l'Homme)である。 本博物館は、パリ第5区(最寄駅 : パリメトロモンジェ広場駅 Place Monge)のパリ植物園内にある当初からのものの他、フランス全土に施設を有する。パリ植物園にある陳列館は、鉱物学・地質学陳列館、比較解剖学・古生物学陳列館、そして有名な進化大陳列館(Grande Galerie de l'évolution)である。博物館所属の古くからある動物園(Ménagerie)もこの植物園内にある。 人類博物館もパリ市内(第16区)にある(最寄駅 : パリメトロトロカデロ駅 Trocadéro)。そこには、遺物、化石その他の民族誌学及び自然人類学に関する展示がされている。 パリ第12区のヴァンセンヌの森にあるパリ動物園(ヴァンセンヌ動物園として知られている)と、クレル(セーヌ=マリティーム県)にある中世荘園におけるクレル動物園との二つの動物園も、本博物館に所属する。 ----- 引用終わり ----- まあ、この国立自然史博物館も、ご多分にもれず、かなりの歴史があるようです。 日本には残念ながらここまで自然を研究しつくした歴史はありません。まあ、日本の場合は「自然との対決」ではなく「自然との共生」がモットーでしたから、ある程度やむを得ない面はあるのかもしれません。 さて、この国立自然史博物館は、パリの東の方にあります。 メトロを9号線→10号線と乗り継いで行けば、比較的簡単に目的地の近くにまでたどり着けるのですが、この日は折角の良い天気だったので、敢えてバスで目的地に向かうことにしました。 バスですと、ブローニュから72号線に乗ってHotel de Ville方面に向かい、途中のAlma Marceauで66号線に乗り換えてJardin des plantes駅で下車しました。 日曜日ということもあり、本数が少なかったので少し時間がかかりましたが、その代わりに普段地下に潜っていると目に出来ないエッフェル塔やら国会議会やら見ることが出来たので、如何にもちょっとした旅をしている気分になり、気持ちが良かったです。 さて、Jardin des plantes駅で下車した後、時間が1時前だったので、今日の旅のもう一つの目的である「モスクの中のレストラン」へ向かうために、Jardin des plantesを突っ切って行きましたが・・・ こんな場所、パリにあったっけ? と、感動してしまう位、いい雰囲気でした。(まあ、天気が良かったせいもあるのでしょうが) 庭園とは言え、今は花が咲いていないこともあり、道行く人々も若干物足りなそうな感じではありますが、それでも行き交う人々ののんびりした表情、ジョギングしている人たち、はしゃいでいる子供たち・・・まあ、こんな広々とした雰囲気の中でパリのど真ん中を散歩できるわけですから、何だかんだ言ってこの街は良いところもあるのかもしれません。 庭園の雰囲気をゆっくりゆっくり味わいながらも、私は嫁さんの速くなる一方の足取りに一生懸命ついていきながら、庭園の西に位置するモスクへと向かいました。 これがその噂のモスク及びモスクの中のレストランの入り口です。 玄関の脇の柱にさりげなく貼り付けられているメニューをざっと見た後、入ろうとした私の目にレストランの名前が飛び込んできました。 「La Mosquee(ラ・モスケ)」 ん? ラ・モスケ? ってそのままじゃん! なんて言う安易な名前のレストランなのだ?こんな名前の店のレストランが本当に美味しいのか?いや、そもそもモスクの中に異教徒が堂々と入ってしかも食事なんぞして良いのか、と少し不安に感じた私のことはそっちのけで、嫁さんはぐーぐー鳴るお腹を押さえながら、さっそうと、いかにもアラブ人っぽいウェイターに席が空いているかどうか、聞き始めました。 ウェイターの人はしばらく店の中を見ていましたが、やがて振り返ると一言言いました。 「大丈夫(^^)」 かなり人が多かったので、大丈夫かと心配しましたが、これでほっと一安心。早速席に座り、辺りを見渡してみると、まあそれなりにイスラムっぽい作りではあります。 食事は、というとこちら。 私が頼んだのは牛肉&クスクスでしたが、これがかなり美味しい!私は1年7ヶ月にわたって中近東のど真ん中にあるバーレーンにいましたが、このレベルの美味しいハラルの料理は食べた記憶があんまりありません。 しかも、お値段の割には量が多く、食後のお茶を飲み終わる頃には、私も嫁さんもお腹がパンパンに膨れ上がっていました さて、エネルギー切れを解消したところで、颯爽とお目当ての「進化大陳列館(Grande Galerie de l'évolution)」へ向かいました。 人がかなり並んでいることといい、なかなか期待感が持てそうです。 中に入るや否や、いきなりくじらのでっかい骨が我々を出迎えてくれました。 一瞬恐竜の骨かと思ったくらいです。 中は、4階まであり、真ん中は巨大な吹き抜けになっていて、その真ん中にキリンやら象やら鹿やら熊やら、動物たちがこれでもかこれでもかと言わんばかりに集まっています。 嫁さんは「ノアの大箱船に乗り込む動物の大行列」と言っていましたが、まさに同感です。 上から見ると、壮大な光景です。 「よくもまあこんなに動物を集めたなあ」、とぼーっと考えていると、嫁さんが横からぼそっと暗い声で一言。 「これってみんな剥製にされたんだよー。むごいことするねえ。」 えっ?これって全部剥製?私のぬぼーっとした気分は一気に消し飛んでしまいました。なんて残酷なことをするのだ・・・ しかし子供たち(この博物館は何故か子供ばっかり。家族連れが多いからなのか、それとも学校のクラスとして来ているのか・・・)は何も知らずにきゃーきゃー騒いでいます。 私も、子供だったらもしかして彼らと同じように騒いでいたかもしれません・・・(←そんな元気のある子ではなかったけどね・・・) この「進化大陳列館」、とにかく動物が一杯います。 絶滅した動物の剥製までありました。 「この展示を作った人もこれらの動物を剥製にしたから絶滅に加担したんじゃねーの?」なんてお下劣なことは言うつもりもありませんが、少し複雑な気持ちです。 まあ、それでも入場料に見合うだけの内容は見れたので、満足しました。5点満点をあげましょう! (日本から観光で来たら、ここには恐らく来ないだろうけどね・・・) ついでに、その他の主な画像はこちらです↓ ↑ 注: 実物の100倍以上の模型です。こんなでかい虫は、SF映画の世界以外、金輪際存在しませんのでご安心下さい。 #
by witchmountain
| 2008-02-20 02:22
| フランスでの生活
2月9日(土曜日)、パリは快晴でした。
この天気に誘われたのかどうかはともかくとして、午後から嫁さんとパリのルーブル美術館のすぐ近くにある「オランジュリー美術館(Museé de l'Orangerie)」を見に行ってきました。 このオランジュリー美術館、私はパリに来るまでその存在を知りませんでした。 いや、実を言うと、 2月に入るまでオランジュリー美術館の名前すら知りませんでした・・・ まあ、そうはいっても「オランジェリー」という名前に惹かれたことは事実です。 (オランジという名前から私はオランダのオレンジ公をついつい連想してしまいましたが・・・) ちなみに、オレンジとは仏南部プロバンス地方の都市の名前だそうです。 ----- Wikipedia Japanese より引用 ----- オランジュ オランジュ(Orange)は南フランスプロヴァンス地方のヴォクリューズ県にある市。人口約2万8千人。アヴィニョンの北方21キロに位置する。英語ではオレンジ(Orange)、オランダ語ではオラニエ(Oranje)となる。 人口 は27,989 人 (1999年) 、面積は74.10 km²。 古代にはケルト人の居住地であったが、ローマ帝国に支配され、この時代の遺跡も残る。12世紀には神聖ローマ帝国の封土として小規模な公国となり、16世紀に婚姻関係によって、元来ドイツとネーデルラントの貴族であったナッサウ家の一族に相続された。ウィレム1世以降のオランジュ(オラニエ)公の家系をオラニエ=ナッサウ家というが、ウィレム1世以来代々ネーデルラント連邦共和国の統領(総督)を出し、ウィレム3世(ウィリアム3世)はイングランド王も兼ねた。1673年にルイ14世によってオランジュ公の城が破却され、オランジュ公国は1702年にフランス王国に併合されたが、以後もオラニエ公の称号は名目上のものとして用いられた。そしてオラニエ=ナッサウ家を現在まで続く王家としてオランダ(ネーデルラント)王国が成立すると、オラニエ公は王太子に与えられる称号となった。なお、19世紀にオランダ系ボーア人が南アフリカに建国したオレンジ自由国もこのオレンジ=オランジュ(オラニエ)にちなむ。 ----- 引用終わり ----- まあ、もっとも肝心のオランジュリー美術館はというと、私の想像したオレンジ公とは全く縁もゆかりもない場所のようですね。 ----- Wikipedia Japaneseより引用 ----- オランジュリー美術館 オランジュリー美術館(-びじゅつかん 仏 : Musée de l'Orangerie)はフランスのパリにある印象派とポスト印象派の美術館である。 セザンヌ、マティス、モディリアーニ、モネ、ピカソ、ルノワール、シスレー、スーティンなどの作品を収蔵している。 1区のコンコルド広場の隣、テュイルリー公園内にセーヌ川に面して建っている。もともとはテュイルリー宮殿のオレンジ温室だったが、1927年、モネの『睡蓮』の連作を収めるために美術館として整備されたのである。1965年からはフランスに寄贈されたジャン・ヴァルテル&ポール・ギヨームコレクションの散逸を防ぐために保護に当たっている。 1999年8月から改装のため永らく休館が続いていたが2006年5月再オープンした。 ----- 引用終わり ----- まあ、要するに元々オレンジ温室だった場所を美術館にして整備したため、オレンジの名前を取って「オランジュリー」となったようです(苦笑)。 前置きはさておき、私の、オランジュリー美術館を見た感想です。 ① なかなか立派な装いの美術館で、内部は綺麗だった。過去に何度か改築しているそうだが、一番最近の改築は2006年なので、新しくて清潔。(下の写真は外観) ② 中にある絵画の中で圧巻だったのはモネのジュベルニーを描いたもの。楕円形状の部屋にモネの絵が一周する形で並んでいた。印象的だったのは、ある絵画の一部分が黄金色に光っていたこと。小麦畑のようにも見えたが、ジュベルニーの庭園に小麦畑はなかったはず。何の景色を描いたのだろう?(下の写真がその絵です。) ③ 地下1階は画商ポール・ギュロームが財政支援したピカソやルソー(契約論を書いたジャン=ジャック・ルソーではなく、デワニエ・ルソーという人)等の絵が展示されていた。ピカソは初期の作品らしく、ゲルニカのような自由な書き方ではなかったが、彼の絵が展示されていたのには少々びっくりした。 ④ 一番印象に残ったのはジュベルニーの風景画(名前は省略。下の絵) まあ、モネの絵を見れたのは良かったですし、何よりもルーブルやオルセーのすぐ近くにこのようなよい美術館が隠れていたとは、なかなかパリも奥が深いですね(今更気づくのも遅いのですが。) もう一度時間があったら見てみたい美術館です。 #
by witchmountain
| 2008-02-11 00:14
| フランスでの生活
先週の日曜日の午後に、マレ地区にあるCentre Pompidou(ポンピドゥー・センター)へ行って来ました。
午後4時というかなり遅いタイミングに出発したのですが、流石に自宅がブローニュという絶好の場所ということもあって、メトロ9号線→メトロ1号線でHotel de Ville駅で下車して歩くこと10分、午後5時前に正面玄関前に到着しました。 しかも、今日は月の第一日曜日、つまり一部の美術館がただになる日です。 勿論、ポンピドゥー・センターもただです。 ところで、このポンピドゥー・センター、パリでは「奇妙な建築物」というイメージがあるようですが、まずは下記記事を参照ください。 ----- Wikipediaより引用 ----- ポンピドゥー・センター ポンピドゥー・センター(Centre Pompidou)は、フランスの首都・パリにある総合文化施設で、正式名称はジョルジュ・ポンピドゥ国立美術文化センター(サントル・ナシヨナル・ダール・エ・ド・キュルチュール・ジョルジュ・ポンピドゥCentre National d'Art et de Culture Georges Pompidou)という。レンゾ・ピアノとリチャード・ロジャースが設計し、1977年開館。名前は、フランス第五共和政の第2代大統領ジョルジュ・ポンピドゥーにちなんでいる。 彩色されたむき出しのパイプとガラス面で構成された外観は現代的を通り越して前衛的と呼べ、建物自体がひとつの芸術作品であるといえる。だがパリは伝統的な建築物が多い都市なので、開館当時はパリ市民の間では賛否両論があり、一部の人からは「いつ完成するのですか?」との質問もあったという。 ポンピドゥー・センターには国立近代美術館、産業創造センター、音響音楽研究所IRCAM、公共図書館が入っている。(IRCAMは組織としてはポンピドゥー・センターが管轄するが、建物はポンピドゥー・センターの中ではなく、その南隣にあるストラヴィンスキー池の地下に存在する。) 1997年9月20日~12月14日にかけて、日本でも東京都現代美術館でポンピドー・コレクション展が開催され、マティスやカンディンスキーなどの絵画や彫刻が紹介された。 2004年には慶應大学環境情報学部教授の建築家・坂茂、同学部の学生星野陽介らとフランスの建築系大学学生らによる[紙の仮設スタジオ建設]を目的としたワークショップも行われた。 2008年、フランス北東部の都市メス(Metz)に分館としてポンピドゥー・センター・メスが開館する予定である。設計は、日本人建築家坂茂とフランス人建築家Jean de Gastinesのグループに決定している。また、中国の上海、盧湾区に分館を開設する計画も進行している。 ----- 引用終わり ----- と、まあいろいろ経緯はありそうなのですが、私の一言コメント集は次の通り。 ① パリらしからぬ、何だか妙な建物。 ② 6階までのエスカレーター、お台場のフジ本社の作りによく似ている(パクったのはフジ?) ③ 展示してあった絵画や彫刻は、現代風。なかには面白いものもあったが、全体的に小粒に感じた。 ④ 無駄に大きいような気もしたが、「美術文化センター」ということもあり、内部には図書館、カフェ、更には映画館まで揃っており、良く言えば名前通り。 ⑤ 外のでかい「通気口」は芸術作品?それとも実用?嫁さんに聞かれたので、「でかい建物の換気用では?」と答えたが、後から考えたら自信がないなあ・・・ ⑥ 入場料が値上がって12ユーロ!しかも、パンフレットには10ユーロと印刷してある箇所に簡単なマジックペンで取り消し線が引かれて、その横にそっけなく「12」と汚い数字が手書きで書かれてあるだけ。まあ、フランスらしいといえばフランスらしいし、物を無駄にしない精神は大したものだが、それにしてもこの展示内容で2割アップ、しかもルーブルより高いというのは解せない。 最後は一言コメントではなくなってしまいましたが、まあまた一つ新たなパリの記憶が私の中に加わったということでしょうか。 最後に、6階から見たエッフェル塔やモンマントルの丘は綺麗でした。(以下に写真集) #
by witchmountain
| 2008-02-05 00:11
| フランスでの生活
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